坂東三十三ヶ所観音霊場ふれあい広場


当社は、南房総の千葉県木更津市を中心として不動産仲介業及び、損害保険・生命保険
    の代理業を営んで居ります。平成5年の会社設立以来、お客様の交通安全・商売繁盛
    祈願致しております。現在、6回の祈願を終え、 7回目の祈願巡礼を思いたちます。




坂東三十三ヶ所観音霊場を、順次紹介致します。


  平成22年08月11日                                         
     今年の05月04日に、坂東三十三番札所 那古寺で結願致しました。結願の御礼に長野の善光寺と上田市の
       北向観音に参拝致しました。平成20年09月10日の鎌倉の杉本寺の発願から約2年の巡礼でした。
    坂東第一番     大蔵山 杉本寺(天台宗) 本尊十一面観世音
                   神奈川県鎌倉市二階堂903        電話 0467−22−3463
                   巡礼歌   たのみある しるべなりけり 杉本の ちかいはすえの 世にもかはらじ


仁王門


本 堂

 文治5年(1189年)11月23日の夜、御堂が失火によって炎上し、別当
浄台房が火焔の中に飛び入ってこの本尊三躰を運び出したが、浄台房は
衣をわずかに焦がしただけで、身にはやけどもしなかった。以後信仰をおおい
に集めたといわれるが、寺の縁起では、このとき本尊自らが杉の大木の下に
避難したので、杉の本の観音と呼ばれるようになったと伝えられている。また、
信仰心なくしてこの前に馬乗り入れると、かならず落馬するので、下馬観音
ともいわれ、建長寺の開山大覚禅師は、この像に祈願して、禅師が所持する
袈裟で行基菩薩作の慈眼を覆って覆面観音と号したら、その後この袈裟
の功徳によって落馬などの利罰もなくなったと伝えられる。
 おもしろい逸話である。

    坂東第二番     海雲山 岩殿寺(曹洞宗) 本尊十一面観世音
                   神奈川県逗子市久木5丁目7−11    電話 0468−71−2268
                   巡礼歌   立ちよりて 天の岩戸を おしひらき 佛をおたのむ 身こそたのしき


仁王門


本 堂
 岩殿寺は、大和の長谷寺の開山徳道上人が訪れたことからはじまるといわ
れる。この地にたどり着いた上人は、東南の空で不思議な光をみて、その光
を探しあててみると、三方に屏風のよう岩がそばだち、近くに逗子の海岸、遠く
に三浦半島から伊豆、房総半島までも眺望できる絶景の地であった。ここで
一人の老翁に会った上人は、熊野権現の化身と思って鎮守としてまつり、村人
に「この山は後に大慈の淨殺になるであろう」といいのこして大和の国へ帰った
。それから数年して、行基菩薩がこの地訪れ、同じような体験をしたので十一
面観音像刻んで霊場とした。そして岩窟が自然の殿堂のようだったので
「岩殿寺」と号したという。源頼朝は、文覚上人のすすめによってこの観世音を
信仰し、石橋山敗戦のときは、観世音が船人となって頼朝を房州洲崎へ渡し
たといわれるほど、大変なご利益をえて、毎月欠かさず参拝し一生の守り本尊
とした。また、源実朝もしばしば参詣したという。
    坂東第三番     祇園山 安養院(浄土宗) 本尊千手観世音 
                   神奈川県鎌倉市大町3丁目1−22    電話 0467−22−0806
                   巡礼歌   枯木にも はなさくちかい 田代寺 世をのぶつなの あとぞ久しき


仁王門


本 堂
 頼朝夫人政子は保元2年(1157年)北条時政の長女として生まれ、その後
頼朝が伊豆に配流されていた治承元年(1177年)政子21歳のとき、父時政
の反対をおしきって頼朝と結婚し、頼家、実朝のほか2女の母としてすごして
いたが、頼朝の死後は剃髪して尼となったものの、独自の政治的な才腕を
はっきして、武家政権の基礎をつくったことで知られている。尼将軍といわれて
いるように、日本女性史のなかでも特異な存在である。この政子が、嘉禄元年
(1225年)3月、頼朝の菩提を弔うために、長谷笹目谷に寺を建立し、願行
上人を開山にして京都東山の寺号を移し、祇園山長楽寺とした。そしてその年
の7月に政子は亡くなり、この寺へ埋葬されたが、北条泰時は、さらに堂宇を
建立して七堂伽藍を整備し、政子の法名をとって安養院とした。やがて、正慶
2年(1333年)兵火のために焼失し、名越派開祖の尊観上人が建立した善導
寺も同時に焼失したので、そのあとへ安養院および政子の墓を移して再興した。
    坂東第四番     海光山 長谷寺(浄土宗) 本尊十一面観世音
                   神奈川県鎌倉市長谷3丁目11−2    電話 0467−22−6300
                   巡礼歌   長谷寺へ まいりて沖を ながむれば ゆいのみぎはに たつはしらなみ


仁王門


観音堂
 木造では日本一といわれる、高さ十メートルあまりの巨大な十一面観世音は
養老5年(721)に徳道上人が、春日の仏工、稽文会・稽首勲の二名に命じて、
大和長谷寺山中の楠の大木に二躰の十一面観音像を刻ませ、一躰は大和
長谷寺へ、他の一躰は、有縁の地に出現して衆生を済度されんと祈願して海上
へ流したところ、十六年後の天平8年(736)、三浦の長井浜に漂着した。そこで
藤原房前は、この像を現在の長谷寺へ移し、徳道上人を開山としたとされてい
る。歴史家は、平安のころに大和長谷寺の東国別院として草創されたのでは
あるまいかといっており、また、但馬の温泉寺、河内の葛井寺、武蔵の寿福寺
なども一木二体の像と伝えられ、樹木崇拝から生まれたものであろうといわれ
ている。長谷の観世音が信仰の対象となるようになったのは、大仏が安座した
建長4年(1252)、それに極楽寺切り通しが開かれた文永・弘安(1264〜
1287)のころである。
    坂東第五番     飯泉山 勝福寺(古儀真言宗) 本尊十一面観世音
                   神奈川県小田原飯泉1161         電話 0465−47−3413
                   巡礼歌   かなわねば たすけたまえと 祈るみの 船にたからを つむはいゝずみ


仁王門


本 堂
 天平勝宝五年(753)、鑑真が渡朝したとき、八十五センチあまりの十一面
観音像を、孝謙天皇へ献上し、後に、天皇はこの像を道鏡に下賜した。霊亀
元年(715)道鏡は、下野国薬師寺戒壇院再興のために下る途中、千代村に
寺を建てて十一面像を安置した。その後、飯泉に寺を移し、弓削寺とも飯泉寺
とも称したが、応永(1427)以後になると、小田原城の鬼門鎮護の道場として、
勝福寺の勅号を賜ったという。二宮金次郎といえば、薪を背負って読書する、
あの校庭に立つ像を思い出す。金次郎は十四歳で父を失い、幼い弟二人と母
を助けて家業に励むなかで、たまたま観音参詣を思いたち、酒匂川を渡り飯泉
へやってくる。金次郎が御堂の下に膝まづいて拝んでいると、ちょうどそこへ  一人の老僧がきて経を読み始めた。それをきいていた金次郎は読経の終わる
のをまって、いま読まれたお経はどんなお経か、と老僧にたずねたら、老僧は
観音経だという。ふだんきいていた観音経とちがって、金次郎にもよくわかるの
で、その理由をきくと、国語で読誦したのだという。すっかり感激した金次郎は、
所持金の全部を与え、再度読んでほしいと懇願し、老僧は再び観音経を読む。
    坂東第六番     飯上山 長谷寺(高野山真言宗) 本尊十一面観世音
                   神奈川県厚木市飯山5605         電話 0462−41−1635 
                   巡礼歌   飯山寺 たちそめしより つきせぬは いりあいひヾく 松風のおと


仁王門


本 堂
 建仁年中(1201〜03)に領主の飯山権太夫が伽藍を建て、建仁二年に
頼朝が義景に命じて造営を加えさせ、その後、嘉吉二年に炎上し、その時再建
されたのが現在の御堂で、五百余年の歳月を経ているわけである。堂内に安置
されている本尊十一面観世音は像高1.8メートルあまり、神亀二年(725)、
行基菩薩が大和長谷寺の仏材に刻んだものと伝えられている。縁結びの観世
音として、信仰者が多いといわれる本尊の開帳は、毎年四月八日に行われる。
この日は広場の見合い松、夫婦松でお見合いして結婚した花嫁が、盛装して
参詣するという古来からの奇習が残り、名物のタニシが売られ、「タニシマチ」
といって、参道の桜並木の花も見ごろなので、大変な人出だという。この日に
松の下で見合いすると、不思議と縁が結ばれるので、未婚の若い男女も
着飾って参詣するという。
    坂東第七番     金目山 光明寺(天台宗) 本尊聖観世音
                   神奈川県平塚市金目896          電話 0463−58−0127
                   巡礼歌   なにごとも いまはかないの 観世音 二世安楽と たれかいのらん


仁王門


本 堂
 本尊の聖観音像(二十一センチあまり)は、大宝二年(702)小磯の浜より
現れ、霊験あらたかだったので、道儀上人は、この地をえらんで道場を建立し、
三十年後の天平年間に東国を訪れた行基菩薩が、一・八メートルの聖観世音
を彫刻し金像を胎中におさめたとつたえられる。また、本尊前立の観音像は、
明応二年から七年(1493〜八)にかけて造立されたものといわれる。いずれに
しても、その後、頼朝はこの観世音を信仰し、治承年中(1177〜80)に堂宇
伽藍を修築し、観音像や寺領を寄進して、将軍代々の祈願所としたといわれ、
当時の頼朝直筆の古文書が現在寺に保管されている。頼朝夫人政子は実朝
出産のときに鶴岡八幡宮をはじめ、相模国十二神社十五仏寺に対して安産

祈願をおこない、金目観音堂でも誦経が修せられたことが記録されている。
それ以来安産守護の観世音として名高く、寺より授けられる腹帯をしめると、
丈夫な子を容易に生むことができると信じられ、安産腹帯を乞う人が、今日
絶えないという。
    坂東第八番     妙法山 星谷寺(真言宗大覚寺派) 本尊聖観世音     
                   神奈川県座間市入谷3−3583      電話 0462−51−2266
                   巡礼歌   さはりなす まよひの雲を ふりはらい 月もろともに おがむ星谷


仁 王


本 堂
 行基菩薩が諸国教化のためにこの地を訪れると、すでに小堂があったので、
自ら四十センチほどの聖観音像を彫刻し、新しい御堂を建ててそれを本尊と
して安置した。その後怪火に見舞われた御堂は、たちまち火焔に包まれ、本尊
を取り出すひまもなくすべてを焼失した。その時観音像は猛火の間を抜けて
南へ向かって飛び出し、杉の枯れ枝に光明を放ちながら止まったので、住職の
理源は霊地を南に求め、現在の地に御堂を再建した。それ以来火災の難が
なくなったという。今の御堂は、屋根にトタンをかぶせてはあるが、いかにも古い
建物で、向拝にはすばらしい竜の彫刻があり、やわらかな文字で書かれた
「星谷寺」の扁額が掲げられている。
    坂東第九番     都幾山 慈光寺(天台宗) 本尊千手観世音  
                   埼玉県比企郡都幾川村西平386      電話 0493−67−0040
                   巡礼歌   きくからに 大慈大悲の 慈光寺 ちかいも共に ふかきいわどの 


山 門


本 堂
 
    坂東第十番     巌殿山 正法寺(真言宗智山派) 本尊千手観世音
                   埼玉県東松山市岩殿1229         電話 0493−34−4156
                   巡礼歌   のちのよの みちをひきみの 観世音 このよをともに たすけたまえや


仁王門


本 堂
 養老2年(718)沙門逸海が千手観世音を岩窟に安置して、そのかたわらに
正法庵をむすんだのが正法寺のはじまりとされる。その後、延暦年中(782〜
805)に、比企の山に悪竜が住みつき、村人に害を与えたので、たまたま奥州
征伐で立ち寄った坂上田村麻呂が、この悪竜を退治するために岩殿の千手
観世音に祈願したところ、炎暑にもかかわらず30センチを越える雪が積もり、
悪竜の姿を見出し、1矢のもとに射倒し村人を救うことができた、という伝説が
今日でも残っているが、岩殿や近くの部落では、6月1日に庭先でスクモリ
(小麦のヌカ)を炊き、この火で家族一同が魔物に会わないようにと尻をあぶる
習俗があり、この朝家々では観世音に感謝し、田村麻呂に上げるために、麦粉 
で饅頭をつくって食べる。関東各地には、田村麻呂の伝説が残っているけれど、
こうした習俗はあまりみられない。6月1日には部落の人々が御堂へ参詣する
という。
    坂東第十一番   岩殿山 安楽寺(真言宗智山派) 本尊聖観世音
                   埼玉県比企郡吉見町御所374       電話 0493−54−3898
                   巡礼歌   吉見よと あまのいわとを おしひらき 大慈大悲の ちかいたのもし   


仁王門


本 堂
    坂東第十二番   華林山 慈恩寺(天台宗) 本尊千手観世音
                   埼玉県岩槻市慈恩寺139          電話 0487−94−1354
                   巡礼歌   慈恩寺へ 詣るわが身も たのもしや うかぶげしまを 見るにつけても


山 門


本 堂
    坂東第十三番   金龍山 浅草寺(聖観音宗) 本尊聖観世音
                   東京都台東区浅草2丁目3−1        電話 03−842−0181
                   巡礼歌   ふかきとが いまよりのちは よもあらじ つみあさくさへ まいる身なれば


雷 門


本 堂
    坂東第十四番   瑞応山 弘明寺(真言宗高野山派) 本尊十一面観世音
                   神奈川県横浜市南区弘明寺町267     電話 045−711−1231
                   巡礼歌   ありがたや ちかいの海を かたむけて そゝぐめぐみに さむるほのやみ


仁王門


本 堂
    坂東第十五番   白岩山 長谷寺(金峯山修験本宗)  本尊十一面観世音 
                   群馬県群馬郡榛名町白岩448        電話 0273−43−0349
                   巡礼歌   だれもみな いのるこゝろは しらいわの はつせのちかい たのもしきかな


仁王門


本 堂
    坂東第十六番   五徳山 水沢寺(天台宗)  本尊十一面観世音 
                   群馬県北群馬郡伊香保町水沢214     電話 0279−72−3619
                   巡礼歌   たのみくる こゝろもきよき 水澤の 深きねがいを うるぞうれしき
    坂東第十七番   出流山 満願寺(真言宗智山派) 本尊千手観世音
                   栃木県栃木市出流町288          電話 0282−31−1717
                   巡礼歌   古里を はるばるここに たちいづる わがゆくすえは いづくなるらん
    坂東第十八番   日光山 中禅寺(天台宗) 本尊千手観世音
                   栃木県日光市中禅寺歌ヶ浜2578     電話 0288−55−0013
                   巡礼歌   中禅寺 のぼりておがむ みずうみの うたのはまぢに たつはしらなみ
    坂東第十九番   天開山 大谷寺「天台宗) 本尊千手観世音
                   栃木県宇都宮市大谷1198         電話 0286−52−0128
                   巡礼歌   名をきくも めぐみ大谷の 観世音 みちびきたまえ しるもしらぬも


仁王門


本 堂
    坂東第二十番   独鈷山 西明寺(真言宗豊山派) 本尊十一面観世音 
                   栃木県芳賀郡益子町大字益子4469   電話 02857−2−2957
                   巡礼歌   西明寺 ちかいいをここに 尋ぬれば ついのすみかは にしとこそきけ
    坂東第二十三番 佐白山 観世音寺(普門宗) 本尊千手観世音 
                   茨城県笠間市笠間1056−1        電話 02967−2−1332
                   巡礼歌   夢のよに ねむりもさむる 佐白山 たえなる法や ひびく松風


馬頭尊


本 堂
    坂東第二十一番 八溝山 日輪寺(天台宗) 本尊十一面観世音
                   茨城県久慈郡大子町大字上野宮字真名板倉2134 電話 02957−7−0760
                   巡礼歌   まよう身が 今はやみぞへ まいりきて ほとけのひかり 山もかがやく


本 堂


駐車場から
 茨城・栃木・福島県にまたがる八溝山の霊場日輪寺は千三百年前に
開山され大同3年(808)弘法大師現世浄土の大理想をもってみずから十一
面観世音の霊像を刻み本尊となし朝に祖国の隆昌と安民豊楽の護摩修行
夕べに有無両縁の冥福を祈願し茲に北関東と南奥州の大道場として信者を
広め永延3年坂東二十一番霊場となりました。徳川期に至り光圀公及び家康
公は常陸依上郡四十二ヶ村奥州白河北郷八十六ヶ村白河南部五十八ヶ村
下野那須郡二百六十ヶ村に寄符と配與し春秋二期齋供を納めつつ寺門の
維持の法をたてたのであります。明治十三年山火事のため堂塔を焼失しまし
たが霊場加護により尊佛は難を免れ大正四年四月旧観音堂跡に現日輪寺が

再建され現在に至りましたが堂舎の破損甚しく且つ狭隘であるため昭和48年
に現在のような堂宇が建設されたのであります。
    坂東第二十二番 妙福山 佐竹寺(真言宗豊山派) 本尊十一面観世音
                   茨城県常陸太田市天神林町2404    電話 02947−2−2078
                   巡礼歌   ひとふしに ちよをこめたる 佐竹寺 かすみがくれに みゆるむらまつ


仁王門


本 堂
 寛和元年(985年)花山天皇の勅願により元密上人が開山したと伝えられ
昔鶴ヶ池の北の観音山にあったが天文十二年(1543年)十月兵火によって
焼失し同十五年佐竹義昭によってこの地に再建された。本尊は聖徳太子の作
と伝えられる十一面観世音菩薩まつられ安産・厄除けの仏様として信仰され
古くから坂東三十三番観音霊場の第二十二番札所として巡拝が絶えない古刹
である。本堂は茅葺・寄棟造りで主屋の周囲にこけら葺のもこしをめぐらし正面
中央に唐破風をあげている。正面の火頭窓や柱や組物など桃山時代建築の
先駆として豪放雄大な建築様式で注目すべき遺構をもっている。内陣は五間
四面の瓦敷で箔押の来迎柱を建て華麗な須弥壇が設けられている。
  
国指定重要文化財
    坂東第二十四番 雨引山 楽法寺(真言宗豊山派) 本尊延命観世音
                   茨城県真壁郡大和村本木1         電話 0296−58−5009
                   巡礼歌   へだてなき 誓いをたれも 仰ぐべし ほとけの道に あまびきの寺


仁王門


観音堂
 用命天皇の御代(586年)に中国梁の帰化僧の法輪独居士が開創し本尊の
延命観世音は法輪独居士と共に渡来し当山に安置され、その後弘仁年間
(810年〜823年)に修理されたと伝えられる。光明皇后は自身の安産祈願
のため法華経一巻を書き写しここに奉納したといわれ、それ以来皇室の安産
子育ての祈願所ともなり昭和三十四年十一月の浩宮御出産のときは住職が
随員と共に宮中へ参内し、お守りを奉呈している。本尊の延命観世音は安産
子育の霊験著しいといわれ、わが国でも他にはあまりみられない珍しい観世音
である。紀伊国屋文左衛門が東海道の往復の交通安全と商売繁盛を祈願し
利益が得られてより江戸からの参詣者が多くみられるようになったといわれ、
それだけに三度の火災にあいながらも、そのたびに復興し寛永七年(1630
年)当時改修したのが現在の本堂です。
    坂東第二十五番 筑波山 大御堂(真言宗豊山派) 本尊千手観世音 
                   茨城県筑波郡筑波町宮脇474       電話 0298−66−0126
                   巡礼歌   大御堂 かねはつくばの 峯にたて かた夕ぐれに くにぞこいしき


大御堂


鐘 楼
 延暦元年(782年)徳溢上人が開き千手観世音を安置し弘法大師は自ら
山嶺を極めて堂宇を建立し知足院中禅寺と号した。その後鎌倉期には僧
明玄が別当をつとめ子孫もそれをお継ぎ、応仁五年(1358年)落雷によって
御堂は焼失し後に源海上人が再興した。また江戸幕府は筑波が鬼門に当る
ところから祈願所と定めて家光は十八間四面の御堂と共に三重塔・楼門・鐘楼
等々を建立し中禅寺はおおいに繁栄したという。しかし、明治維新の廃仏毀釈
で筑波神社は残されたが七堂伽藍は破壊されて廃寺となり、その後昭和五年
に大御堂だけが再建されたのである。昭和十三年の山崩れで御堂が埋没した
ときも千手観世音は奇跡的に土砂中より出現し、かすり傷も負わなかったと

いわれる。それから二十三年後の昭和三十六年旧地に復興したのである。
    坂東第二十六番 南明山 清滝寺(真言宗豊山派) 本尊聖観世音
                   茨城県新治郡新治村小野1151      電話 0298−62−4576
                   巡礼歌   わがこころ 今より後は にごらじな きよたきでらへ まいる身なれば


仁王門


本 堂
 推古天皇15年勅願により竜ヶ峯に創建され大同年間(806〜810年)徳一
上人によって古観音に移されたと伝えられています。七堂伽藍を備えた大きな
寺は、天正年間(1573〜1592年)小田氏・佐竹氏の兵火により焼失し、江戸
時代に現在地へ再建されたと伝えられているが昭和四十四年(1969年)本堂
昭和四十八年(1973年)仮堂が火災にあい現在ある本堂は昭和五十二年(
1977年)に再建されました。江戸時代に建てられた山門が昔日の面影を残し
ています。行基菩薩が刻んだという本尊の聖観世音は素朴な尊容で衆生の悩
みをきいて下さる親しみのあるどこか庶民的なものをもたれた観世音であった。
巡礼以外の人の訪れはあまりなく、今は無住で農家の老人が交代に納経所を

つとめているという。段の近くにある石の手洗いは岩清水が筧を伝わって注い
でおり、この水音が絶えることなく霊場の命脈を保っているようだ。
    坂東第二十七番 飯沼山 円福寺(真言宗) 本尊十一面観世音
                   千葉県銚子市馬場町293          電話 0479−22−1741
                   巡礼歌  このほどは よろずのことを 飯沼に きくもならはぬ 波の音かな


仁王門


観音堂
 推古天皇36年(628年)に、檜前浜成、竹成の兄弟が宮戸川で漁猟中網に
かかったのが浅草観音だと伝えられているが、この銚子観音も一世紀後の神亀
(728年)漁夫の網に拾いあげられたと伝えられ、浅草観音と草創伝説が類似
している。本尊の十一面観世音を拾いあげた漁夫・清六と長蔵は後に出家して
観清(清六)・音長(長蔵)と称ししたが弘仁年間(810〜824年)に弘法大師
が巡錫したとき、連座を作って開眼し、この地の海上長者と称する豪族が、観世音の慈悲と大師の修法力に心をうたれ、財を惜しまずに提供し、壮麗な伽藍を
建立して大師を開祖とあおいだと伝えられる。天正6年(1578年)には八間
四方の観音堂が建てられた。安政2年(1773年)には十間四方の銅葺に改築
され仁王門・鐘楼・多宝塔・太子堂などの建物が整備され、戦前まで豪壮な姿を見せていたが、太平洋戦争のためすべてを焼失したのである。昭和46年に現在の大観音堂と仁王門が再建され、境内も整備される
    坂東第二十八番 滑河山 龍正院(天台宗)  本尊十一面観世音
                   千葉県香取郡下総町2296         電話 0476−97−0217
                   巡礼歌  音にきく 滑河寺の けさがふち あみころもにて すくふなりけり


仁王門


本 堂
 仁明天皇の承和五年(838年)、慈覚大師が開基し、本尊は4メートルあまりの
十一面観世音だがある年の五月、気候不順のために、この地方は時ならぬ
冷害にみまわれ、真冬のような寒さが続き、農作物は大きな被害を受け、人々
は飢えて横たわるものが続出した。当時の城主・小田将治はこの悲嘆を見聞
し、天候の回復と病人の平癒を観世音に祈願し法華経を読誦したところ、結願
の日に少女があらわれ「汝の願い叶うべし」といって立ち去った。不思議に思い
あとを追って小田川の朝日ヶ淵へ行くと、河中の小舟を掉さす一老僧が衣を網
になしてひいたと思うや小さな観音像を得、これを将治に授けて立ち去った。
将治はこの像を持ち帰り、堂宇を建立して安置したところ、気候は回復し、農作物は豊作となり人心は蘇生の思いをしたという。寺より三百メートルほど離れた
ところに朝日ヶ淵があり、しだれ柳の下に「観音応現碑」がたっている。
    坂東第二十九番 海上山 千葉寺(真言宗豊山派) 本尊十一面観世音
                   千葉県千葉市千葉寺町167         電話 0472−61−3723
                   巡礼歌  千葉寺へ 詣る吾身も たのもしや 岸打つなみに 船ぞうかぶる


仁王門


本 堂
    坂東第三十番   平野山 高蔵寺(真言宗豊山派) 本尊聖観世音
                   千葉県木更津市矢那1245          電話 0438−52−2675
                   巡礼歌  はるばると 登りて拝む 高倉や 富士にうつろふ 阿娑婆なるらん
    坂東第三十一番 大悲山 笠森寺(天台宗) 本尊十一面観世音
                   千葉県長生郡長南町笠森302        電話 0475−46−0536
                   巡礼歌  日は暮るる 雨はふる野の 道すがら かかる旅路を たのむかさもり


仁王門


本 堂
    坂東第三十二番 音羽山 清水寺(天台宗) 本尊十一面観世音
                   千葉県夷隅郡岬町鴨根1270         電話 0470−87−3360
                   巡礼歌  濁るとも 千尋の底は 澄みにけり 清水寺に むすぶあか桶


仁王門


本 堂
 延暦の末のごろ、伝授大師が東北方面の教化を志していたとき、夢に老翁が
あらわれて暗示を受けた。後に上総の国に来て道に迷っていると、一人の木
こりから宿を提供された。しかし、夜があけると彼の姿はみられず、その庵は
神社で、鳥居には熊野権現と書いてある。驚いた大師は近くの山中を尋ねたが
そこは音羽の風景に似ている。先の老翁のことといい、木こりといい、いずれも
熊野権現の化身で、霊場を示すものと思った大師は神社のそばに庵を造り、
十一面観世音の立像を刻みはじめたが、近くから光がするので、そこを掘って
みると、金銅五十センチあまりの聖観音が出てきた。ところが、大師は、堂宇の
建立の念願もはたさず勅命によってこの地を去った。その後、慈覚大師が訪れ
て、ここの楠で千手観世音を刻み、堂宇がないので先師の庵に安置して京都
へ帰った。後に田村麻呂が堂宇を建立し、十一面観世音を奥の院へ、千手
観世音を本堂へ納めた。
    坂東第三十三番 補陀洛山 那古寺(真言宗智山派) 本尊千手観世音
                   千葉県館山市那古1125            電話 0470−27−2444
                   巡礼歌   補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ波を 見るにつけても


仁王門


鐘 楼
 元正天皇の養老元年(717年)、天皇は悩みをもたれ、行基菩薩に勅して平癒
を祈らしめた。行基菩薩は霊夢を感じ、この地を訪れ、海中より霊木を得て千手
観世音を刻んで祈願したところ天皇の悩みはたちまち平常に復した。後に慈覚
大師が訪れ、ここにとどまって練行し,正治年間(119年〜1200年)には,秀円
上人が真言密教の道場として法灯を掲げ、源頼朝、足利尊氏,里見義実などの
帰依を受けて栄えた。徳川時代にも鶴ヶ岡八幡の別当を兼ねて二百八十余石
を領した。しかし、元禄十六年の大震災により、堂塔は全潰し、幕府は、岡本
兵衛に命じて本堂を現在の地に移して工事に着手し、明和年間(1764年〜
1771年)に落成した。明治維新の変革では寺領を失ったが、寺門は維持され
大正十一年に一府二県より浄財を募り本堂の大修理は完了したものの、同
十二年の大震災で半潰し、その後檀信徒の努力で十三年には復旧し、今日に
至った。
     

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